平成24年総会・講演
(桜蔭会神奈川支部便り 第41号より抜粋)
異文化交流と言葉
楊 逸
革命主義の時代の中国から日本に留学してきた。言葉の勉強はその環境に入る前、つまり来日前に、中国の日本語学校で「読む、発音する、聞く」という順で学んでくるべきであったが、当時の中国では勉強に集中できず、また、日本語を学ぶ所がなかった。日本に来てから日本語学校に通い、ラジオを聞きながら、日本語を勉強した。日本語の意味はわからなくてもラジオから聞こえるアナウンサーの声が明るく魅力的だった。文化大革命の名残で闘志を燃やしたような戦う姿勢で声を張り上げていた中国のアナウンサーとは違っていた。近所の奥さんたちが「きょうは天気がいいですね」などと話すのが可愛らしく魅力的だったのでまねするようにした。日本語は短時間に発せられる音の数が多くて早口言葉のように聞こえ、また、話すのも難しかった。「ありがとうございました」は長すぎて「ありがとう」しか言えなかった。日本人は楽しそうに話していると最初は思ったが、日本語を勉強するうちに、それほど楽しいのではないことがわかった。楽しそうに話すというのが日本文化なのかもしれない。いろいろ経験をして、だんだん日本語を面白いと思うようになった。
中国から持って来た辞書を常に持ち歩いていた。聞き取れない時すぐに尋ねると、日本人は親切にゆっくり話して意味を教えてくれた。辞書で調べてもその言葉が出てないこともよくあった。日本語では長く延ばして発音するのと短くするのとでは意味が違う場合があるからである。言葉の中で発音の長さが重要であることが日本語の一つの特徴であると思う。中国語では「イ尓(*)好」をニイハオとかニハオとかニーハオなど、伸ばしても伸ばさなくても意味は変わらない。新聞やテレビのニュースで事件の犯人を「男性」といわず「男」といい、被害者を「女」といわず「女性」ということも面白いと思った。ところが、辞書には「男」には「犯人」という意味はないし、「女性」には「被害者」という意味がない。「男」と「男性」はどこが違うのか。こういう区別は日本語にしかない文化で、中国語や英語にはこのような使い方はない。また、日本語の人称代名詞、特に第2人称には「あなた」と「おまえ」がある。しかし、日本語の教科書には「あなた」しかなく、「おまえ」はない。テレビドラマでは、妻は夫を「あなた」と呼び、夫は妻を「おまえ」と呼ぶ。最初「おまえ」は女性に対する第2人称なのかと思った。中国やアメリカでは普通、相手を名前で呼ぶ。状況によって使い分けるのが難しいので、「○○さん」と名前で呼ぶことにしている。(*)2文字で1文字を表しています。
外国語を勉強するときは必ず辞書を使うが、辞書を持っていても使いこなせない。辞書って何なの?とか、辞書は全然役に立たない!とか、辞書に対して不信感をもつようになった。辞書は、履歴書に貼る写真と同じだと思う。履歴書にはスナップ写真ではなく、きちんとした格好で撮った写真を貼る。履歴書の写真の顔はその人の正しい姿なのだろうか? あれは普段の自分なのだろうか? 辞書に載っている言葉は言葉にとって正しい姿なのかもしれない、辞書に載っている言葉の意味は履歴書に貼る正しい写真みたいなものだ、と思い、辞書に載っていることだけをそのまま覚えるという勉強法はやめた。言葉は生きているものなので、辞書に頼るよりはその言葉を使った人にすぐ意味を聞くようにした。
中国語も日本語も同じ漢字を使うので、意味も同じだと思いがちである。中国人が日本語を勉強する時、あるいは逆の場合もそのような考えに注意すべきである。共通点はあるが共通点を拡大して考えてはいけない。東洋人は欧米人とは顔・形が違うから欧米人と接するときはある覚悟を持つが、日中間では同じなので、文化も同じだとつい思ってしまう。文化同源というように古代に遡れば文化は同じかも知れないが、文化は環境や風土に影響されて発展し次第に異なってくる。中国文化は河の文化、母なる河に育まれた文化であり、島国の日本の文化は海の文化である。古代、中国の大河文化が韓国を経由して日本に渡ってきた。現代では、大河文化と海洋文化が出会い、ちょうど淡水と海水が出会って汽水になるように、韓国文化が出来上がっている。韓流ドラマは日本人にも中国人にも受け入れられるが、現代の中国文化が素直に日本人に受け入れられないのはそういう理由ではないだろうか。日本文化は、日本という国の発祥や複雑な地形によって新しい魅力的な文化に変化した。日本の海洋文化は地理そのものである。文化と地理学を繋いで考えることはあまりないが、実際は文化にとって地理学は重要だと思う。日本語を勉強してから入学したお茶大の地理学科の先生は「地理学はあらゆる学問の基礎である」と仰った。今はその言葉の意味がわかり、私は正しい道を歩んできたような気がする。卒業後は地理に関係した職業に就かず、新聞記者や中国語の教師などを経験し、中国で反日デモが起きた頃から小説を書き始めた。新人賞を受賞して本をたくさん書くようになり、言葉を使う仕事をするようになった。
日本に来た頃、日本人はとても親切に言葉をかけてくれ、そういう時の表情は友好的だった。言葉がわからないのに互いに関心をもった。その後、留学生が増えたからか、言葉を覚えて日本人と話したくなった頃、日本人に関心をもたれなくなった。交流によって文化や人種の違いがわかると関心がなくなる、という状況を自分では受け入れられなかった。
日本からも中国からも多くの人が個人旅行で行き来するようになったのに、国どうしの関係はうまくいかない。「恋愛中は距離があっても会いたいと思うのに、結婚すると離婚したいと思うようになる」というのと同じだろうか。言葉の交流は互いをよく理解できるという長所もあるが、相手を知ると欠点も見えてしまう。異文化なのだから魅力だけで付き合っていけるものではない。互いが必要としているのだから助け合わなければならない。文化的に魅力があるからとか近いから、ではなく、こういうことで私は相手を必要としている、と別の点に立って考えた方がいい交流ができる。言葉ができれば交流ができるとは思わない。言葉ができなくても相手に対して好感をもてば交流はうまくいくと思う。相手をあまり好きでもないのに言葉だけで交流はうまくいかないのではないかと思う。
平成24年秋の催し
(桜蔭会神奈川支部便り 第41号より抜粋)
「東慶寺ものがたり」余滴
昭40史 松村 榮子
「東慶寺ものがたり」という題でお話しさせていただきました。時代の変動を見事にくぐり抜け様々なエピソードに彩られたこの寺の歴史はあまりにも膨大で、覚山尼はなぜ「駆込寺」という他に類のない寺を創ったのか、という素朴な疑問に長く留まることを許してくれません。そこで、覚山尼についてもう少しだけお付き合いいただきたいと思います。
覚山尼が生まれた安達邸の跡は由比ヶ浜通り奥の甘縄神明宮の側にあります。父は安達義景、母は北条時房の娘という以外は分かりません。一歳の時に父を亡くしましたが、安達家の質実な家風の中で育ったようです。神明宮には「北条時宗公産湯の井」が残されており、何故か時宗も安達邸で生まれています。十歳と十一歳の雛人形のようなこの夫婦の誕生は生まれた時からの縁だったのでしょうか。時宗の母は毛利季光(大江広元の四男)の娘という説もありましたが、北条重時の娘が正しいとされています。北条時頼が最大のライバル三浦氏を倒し権力を確立した宝治合戦で、季光は三浦方につき一族と共に自刃して果てました。時頼の正室であった季光の娘は離別され継室に迎えられたのが重時の娘です。重時は北条泰時の弟で時頼を支え、一方地獄谷と呼ばれた地に「極楽寺」を創建した人物でもあります。
話が少しそれますが、登場人物を調べていると、例えば季光は所領である現厚木から津久井にかけての毛利荘の名を採り毛利と名乗ったとか、宝治合戦で只一人生き残った季光の子の末裔が毛利元就であるとか、北条重時の玄孫が足利尊氏の妻となり、足利公方家がすべてここに繋がるので、太平寺の青岳尼と東慶寺十七世旭山尼の姉妹も重時の子孫であるとか、ちょっと道草のつもりがいつの間にか深い草叢に入り込み陶然としてなお進みそうになり「おっといけない、本題は」と慌てて戻るという繰り返しが何度もあり、それはそれで結構楽しいものでした。
覚山尼は夫と共に円覚寺開山無学祖元に深く帰依しました。覚山尼は聡明で自立した女性であり、夫を支えながら陰謀や戦いの渦巻く世の中をしっかり見ておられたのではないかと私には思われます。夫の死とそれに続く霜月騒動で実家が滅亡するという悲哀の中で、八十巻の華厳教の書写に没頭しました。華厳経四十巻入法界品は、善財童子が五十三人の師を訪ねて遍歴する物語です。師の中には優れた菩薩達だけでなくバラモンや遊女まで含まれ、道を求める心には性別・階級・職業・宗教の違いも問わないという平等観を表しているそうです。井上禅定氏は「鎌倉の仏教」(有隣新書)の中で、覚山尼は平等な華厳の世界を現出しようとの意志で東慶寺を「駆込寺」にしたのではないか、と言っておられます。しかし私には何かしっくり来ません。
「私のかまくら」という冊子の平成十年五月号に「かまくら女人幻想覚山尼」という一文が載っています。その中で死を前にした時宗が戦いの陰にいる女人の不幸に心を痛め、「世に女人禁制の寺があるだけでは不公平ではないか。御台よ、わしが死んだら男子結界の寺を建てよ」と遺言する場面があります。覚山尼がそれを守ったというのがこの筆者が考えた答なのでしょう。この筆者はきっと男性?
私は平等という思想は現代の我々の意識の投影であって、訴訟の多かった当時にあっては理非を正すという考えが強かったのではないかと思っています。寺に伝わる「不法の夫に身を任せる女を不憫と思い云々」という言葉からも、覚山尼は「理非を正すといっても、結局女性は弱く不利である。それなら問答無用に女性を救済する寺を創ろう」、と考えたのではないでしょうか。勿論、覚山尼の意志で。
真の心は知る由もなく、史料も乏しくまたその裏付けも取り難い、しかしそれだけに作者の想像力で物語を膨らませることができる、これが歴史小説の醍醐味かもしれません。その才がないのが残念です。